ある教える人の頭の中

教える技術(インストラクショナルデザイン)や学校教育について

【読んだ】5段落エッセイ指導で日本の子どもが変わる!

松本輝彦『5段落エッセイ指導で日本の子どもが変わる!』(リーブル出版、2015)を読んだので、その記録です。

 

本の概要

アメリカに長く滞在し、日本人補習校で働きながら、現地校に通う娘たちの子育ても経験してきた著者が、日本の教育では明確に行われない「文章の書き方」の教育について自身がどのように取り組んできたかを解説しています。

日本とアメリカの「書き方」教育の比較から、著者自身の日米での実践記録とその結果、そして巻末には具体的なエッセイの書き方の解説やテーマ集まで書かれた、実践的で非常に参考になる本です。

著者のメソッドは小学生~大学生まで有効であり、海外大学の受験や大学での学習に必要不可欠な「ハイレベルな文章を書く力」が身につくものだということです。

 

この記事では、著者が実践してきた「エッセイの書き方」を簡単にご説明し、そのあと本書で紹介されている「アメリカの教育」「日本の教育」「両者の教育の比較」についてそれぞれ考えたことをメモしておきます。「自分が子供たちに「国語」や「書き方」を教えるとしたら」という目線で読みました。

 

 

エッセイの書き方

ブレインストーミング

あるテーマを提示し、それについて思いつくことを単語や短文でマインドマップ状に書き出す。生徒が複数人いる場合、「ディスカッション」としてお互いにアイデアを交換し合ってもよい。この際、大人が特定の答えを教えるような言葉がけは行ってはいけない(子供がそこにとらわれてしまうため)

②意見をまとめる

ブレストした結果をまとめたり、紐づけたり、重要なものを選んだりして、3つの内容に絞る。

③書く

1段落目…「~は~だ。理由は、~、~、~だ」など、テーマと②の内容を羅列する。

2~4段落目…②の内容をひとつずつ書く。「1つの段落に1つの内容」というルールを守る。

5段落目…「よって~は~だ」など、全体をまとめなおす。

 

アメリカの教育について考えたこと

予習課題の出し方

p27~アメリカの小学生の予習用のプリントは、学習範囲の文章を何度も行ったり来たりして答えを探さなければいけないように設計されている。次の授業は、予習用プリントの内容を理解した前提で行われ、クラス全員で教科書を読む時間をディスカッションに充てる。

→教員が予習課題を出すときに、単に「本文を読んできなさい」と言っても誰も読まないし読んだとしても頭に入らないだろう。

・本文を読んで、何を知ってきてほしいのかを事前に絞る
・何度も本文を読み返す仕掛けの質問事項にする

以上を踏まえてプリントを作成するなどし、予習~授業を設計していきたい。

Show & Tell

p44~幼稚園から「人前で話すこと」「人の話を聞くこと」のトレーニングが始まる。「質問はありませんか」という声掛けの上で、感想を言っただけの生徒には「それは質問ではなくコメントでしょ」など注意をし、質問とコメントの違いを体で学んでいく。

→聞く態度、聞く練習については日本での教育レベルは非常に高いように思う。小学校高学年になれば、知らない人の長い話であっても静かにおとなしく聞くことができる。こまめにフィードバックが行われトレーニングが重ねられているので、より高いレベルの「聞く」トレーニングとして「質疑応答」を考えたい。

日本では誰かが発表したあとは、聴衆にあまりリアクションを求めない。せいぜい拍手して終わりである。形式的に「何か質問はありませんか」と言ってもだんまりが多い。

また「質問」と「コメント」の違いは、日本の教育ではあまり意識されていない。自分なりに定義するとしたら、

質問…Yes/Noで答えられるもの、なぜ/なに/どのように/どこで、など
コメント…感想、思ったこと、考えたこと

子どもたちに何か発表させる際は、言わせっぱなしではなく「質問はあるか」などの声掛け形式化し、事前に「質問」と「コメント」の違いを説明したうえで、それらの違いを認識できるよう指導していきたい。

 

日本の教育について考えたこと

 

やらせるだけでは勝手に身につかない

p64日本では「書き方」を教えずに作文や志望動機を書かせようとする。「子供の書く力は日常の学習の中で自然に身につく」と考えられているようだ。

→「書き方」についてももちろん言えるし、ほかのことも「やらせれば勝手に身につく」という考え方が当てはまるのではないかと思う。例えば、やり方も教えずとにかくプレゼンやグループディスカッションをさせたり、誰も教えられないのにプログラミング必修化したり、プロでない教員が根性論で部活の活動時間ばかり伸ばしたり、私の出身校では毎日とにかく3km走らせるという制度もあった。

走り方が分からず、学校指定の自分の足に合っているわけでもない靴でアスファルトの高低差もある場所を走るため、ひざや腰を故障する生徒が続出していた。

教える方の義務を果たさず、「とにかくやってみろ」は大きな間違いだと思う。

やり方も分からず回数を重ねても、何も学ばないばかりか、嫌になったり体を故障するなど弊害まで表れることもある。

山本五十六よろしく、「やってみせ、言っ聞かせ、させてみせ、ほめやらねば、人は動かじ」である。教えて、やらせてみて、練習してフィードバックしてできるようになって、初めて「知識」と「技能」がそろい、「学び」になると思う。

 

アメリカと日本の教育を比較して考えたこと

理由があって初めて意見

p52バイリンガルの子どもに「リンゴすき?」など日本語で質問すると「うん」と言うだけで理由を言わないらしい。一方英語で「Do you line an apple?」と聞くと「Yes, because...」と理由を自動的に付けて話しだす。理由を尋ねると「現地校の先生がすぐにWhy?と聞くから。『理由があって初めて意見だ』とも言う」と。

→アクティブラーニングということで「生徒に活発に意見を言わせる」という光景は増えてきているのではないかと思うが、多くの場合「なぜそう思ったの?」という理由を追求することはなく、単に「言いっぱなし」になってしまっているように感じる。それでは「発言させること」だけが目的化してしまっている。

「自由に答えさせる」だけでなく、一言「なぜそう思ったの?」を突き詰めていきたい。

 分からせる責任は教え手/書き手にある

p130~生徒が「分からない」と言ったら、アメリカの教員は「ありがとう」といって別の説明を試みる。教えるときのお互いの態度として大きな違いがあり、日本は「聞き手が空気を読んで理解する」、アメリカは「お互いに意見を説明しあうコミュニケーションで成り立つ」。エッセイも「読み手の読解力不足」ではなく「書き手の説明責任」ととらえることが必要。

→「教えることは、互いに意見を出し合うコミュニケーションである」と気を付けていきたい。「分かりません」と言ってくれた生徒には感謝の意を示したい。「分からない方が悪い」と考えがちな人は、教え手に回るのは危険なのかもしれない。

「書く」ことを通しても、「書き手に責任がある」という態度は伝えていきたい。責任というと重く感じるけども、ここでは「工夫の余地がある方」という認識である。

「話す」ということをとっても、行事での長いお話やつまらない授業をしてしまったときに生徒が退屈そうにしていた場合、それは十分に大人のほうに「工夫の余地がある」のではないかと思う。

 

まとめ

実は、この著者の生徒であったという知人の紹介でこの本を読んだが、非常に内容が豊富で勉強になった。日本では「とりあえず書き出す」をしてしまいがちだが、その前に内容を考えつくし(ブレスト)、内容をまとめてから書く、という習慣を私自身身に着けていきたい。

そして、「書き手の責任」を意識しながら、ブログの内容も磨いて行きたいと思う。